対数増殖の問題点
一般論でいうと、対数増殖するものは、いつか系のリソースを食い尽くすことになる。系そのものを拡大するか、リソースを代替できないと、その系が維持できなくなる。
菌なら死滅する。文明なら滅びる。樹木を切り尽くして滅びた文明はいくつもある。
離婚の場合、リソースの上限は破綻したカップルであろう。
この戦術をとる弁護士の数かもしれないが、この数そのものが急速に増えており、
また多くの新人は窮してもいるようなので、この戦術に手を染めるものが足りなくなることはないだろう。
結婚したカップルの5割(米国の白人)ないし7割(黒人)が破綻するといわれているが、
日本人の場合にどの程度の数値で落ち着くようになるのかはわからない。
この戦術がもっと一般化したときにどんな社会になるのか? 家庭はそのままか?
そもそも、その状態で、結婚というシステムが機能するのか?
これらが、かなり疑問だからだ。
家庭をつくるときに、結婚を選択するリスクが大きすぎるのだ。
平成5(オ)609は、 ただ過去の判例を掘り起こしてまとめただけのものだが、
それは結果として、結婚というシステムを陳腐化させてしまった。
日常的におきる対立を、話し合いではなくて、
子どもの連れ去りという実力行使で解決することを許容したからだ。
ならば、結婚という契約に、何の意味があるだろう?
この意味において、これはかなり画期的な判決だったともいえる。
このリソースを食いつくす前に、裁判所は機能不全に陥るだろう。
新受件数を捌ききれなくて、だんだん時間がかかるようになるはずだ。
こうした機能不全は、しかし、もう何年も続いているともいえる。
すでに、有効な話し合いが成立していないからだ。
誘拐を許容し、子どもの幸福についての判断を避けている現状は、
ただその連れ去りに許可を与えるだけの存在だといえる。
それは、健全な社会を維持するための役割を放棄した姿である。
地裁が機能不全になること自体は、さほどの問題ではないかもしれない。
しかし、結婚や子育ては、社会にとっては、次世代をつくる作業である。
それを司法が壊したのだとしたら、それは「失敗国家」だ。
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