2014年2月24日月曜日

子育て・連れ去りと引き離しは心理的虐待である 2

社会への接点と、子供の時間とを、失う

子どもたちは、私と関わりのあるいろんなことから引き離されてしまいました。
同僚の奥さんがやっていた教室。友達もきてたのに。
ご近所の人たち(みなさんに可愛がられていました)。
姉たち。そして私。

調査書によると、私の家にいたときのことは思い出せないそうです(解離!)。

彼らが失った記憶は、たとえばこんなものです。

ここしばらく寒くて雪が続き、隣家との境が埋まってきましたが、
こんな休日は雪かきをしました。
家の隣の空き地に積み上げて、山をつくりました。
ワンボックスのバンくらいの山ができると、そこに滑り台をつくったり、
長男と掘り出して、かまくらをつくったりしました。
三女はかまくらの中で遊ぶのが好きで、二女や長女も混じって、
ままごとあそびをしました。
長男と私はそのまわりで雪合戦をしました。
雪だるまもつくりました。

近くの公園に、展望台のある小山があります。
こんな雪のときは、その山でそり滑りができました。
長男と三女がめいめいでそりを持ち、私はスコップを持っていき、
コースをつくったり、ちょっとジャンプできるようなコブをつくったりしました。
三女は私とそりにのりたがり、長男とはどちらが遠くまで滑れるかも競いました。

スキー場の、そり用のゲレンデにも行きました。
ゲレンデ近くのプールにも寄って、泳いだり温泉につかったりしました。

帰りぎわにふたりにアイスを買って、車のなかで食べながら
(夜ねれなくなると困るので、なるべく寝かさないように)帰りました。
でも、三女は、大好きなピノ(チョコレートでコートした、ひとくちサイズのアイス)
を買ってもらうと、ゲレンデの山を下りるまでに食べつくしてしまい、
よく箱を持ったままで寝ていました。
家につくと、そっと起こさないようにチャイルドシートから抱き上げるのですが、
しばしば目を覚ましてぐずり始めました。
家では姉たちが待っていたり、無人だったりしたのですが、妻の存在感は希薄で、
食事が用意されていたことはありません。
三女がぐずれば私が寝かしつけて、そのあと夕食の支度をしました。

本当ならこの冬くらいに、そろそろ三女にスキーを教えて、
ゲレンデに連れて行くはずでした。
長男はスキーが滑れるのに、三女につきあって、そりで遊んでいましたので。
自分で行きたいところに行けるようになる楽しさを、
ゲレンデのいちばん上から麓を見下ろす爽快感を、教えてあげたかった。

吹雪いて外出できないときは、長男とはよくベイ・ブレードで遊びました。
彼はいろんなパーツを持っているので、借りて、組んでもらいました。
長男は上手で、けっこう、白熱した良い勝負になりました。
三女も、ちょっとならまわせるようになっていました。

動物園には(飼育員さんたちに覚えてもらえるくらい)よく行きましたが、
冬季にも公開されるようになってからは、ちょくちょく「冬の動物園」にいきました。
そりを貸してもらえたので、そりを持って。
歩き疲れると、私がそりで引っ張って移動しました。
長男は、飼育員さんたちに、いろんなことを教えてもらうのが大好きでした。
レッサーパンダはいろんな果物を食べるけど、いちばん好きなのはぶどう。
アライグマが好きなのはザリガニ。
ザリガニは飼育員さんたちが、近くの池に罠をかけて捕まえてくる。

スケート場にも行きました。
長男はある程度滑れて、同い年くらいの男の子たちとあっというまに友達になって、
鬼ごっこをしたりしていました。
三女は、うしろから支えれば滑れる、ないし
歩くことならできる、という程度なのですが、
小学生の女の子のグループに混じって一緒にあそびたがり、
しばしば実際に場を仕切っていました。
私はその様子を、つかず離れず見ていました。

いちばん頻繁に行ったプールは、県立プールです。
二人共、プールが大好きでした。
長男とはたまに競いました。
彼は平泳ぎが得意で、私よりも速いことさえありました。
三女は向こう見ずで、自分の足がつかないところでも平気で飛び込みます。
目が離せませんでしたが、息が続かなくなると私の方にふりむいて、
私につかまって息継ぎしました。
いつも私が近くにいてサポートしてくれることを信頼していました。
どこに行っても、
帰りがけにはスーパーマーケットに寄って、食材を整えました。
姉たちはどちらかというと菜食なのですが、長男と三女は肉が好きでした。
カレー粉で下味をつけた唐揚げや、皮をパリパリに焼いたチキンソテーが好物でした。
みんなフライドポテトが大好きで、揚げる端から消えてなくなり、
ネタがつきるまで、競うように食べていました。

一年ずっとこんなかんじで。

夏の土日はよく、川か海で過ごしました。
子供を連れて行くのに好適なところが、クルマで小一時間のところにいくつもあって。
カヌーで川下りしたり。
岩場からとびこんでみたり。
魚をおいかけたり。
子どもたち、それもこれもみんな、思い出せないと言います。

これらの記憶の欠落を埋めたのは、私が蹴ったとか叩いたという偽の記憶です。
私を思い出すときに最初にでてくるエピソードがそれだとは断腸の思いです。
愛された、楽しい、温かい記憶の代わりに与えられたものがこれだというのは、
あまりにも不憫です。
この忌まわしい記憶の書き換えは、
妻が連れ去って引き離している間に起きています。
これは単純な事実です。

いまや子どもたちは、塾以外はずっと引き篭っているらしい。
土曜日には教会にいくのだそうで。
教会が社会との接点、、、まあまだ全てが失われていないだけマシですが。
それで、私への愚痴をえんえん聞かせられているらしい。
子供に、泣きながら、父親の悪口を言い続けているって、どういうことだろう?
妻には友達がいないんだろうなあ。昔の友達は、私ともつながっているので(?)、
絶縁状態みたいで。
でも子供を友達のかわりにしちゃうことで、
子どもたちの「子供の時間」が奪われています。

これは虐待です。

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